科学技術のルーツを掘り起こす仕事です

2021/03/12
佐藤 賢一氏(さとう けんいち)
国立大学法人電気通信大学大学院情報理工学研究科 教授佐藤 賢一氏(さとう けんいち)

科学史家。江戸時代の日本における科学、あるいは技術を歴史的側面から研究している。全国を飛び回って集めた資料と見聞きした知見は大学での講義に留まらず、学外の講座や書籍等で発信している。直近では『国絵図読解事典』(創元社、2021年)に記事を執筆。プライベートでは東日本大震災で被災した子どもたちの長期的・継続的な心のケアを目的とした団体「一般社団法人こころスマイルプロジェクト」に設立以来関わり、現地でのグリーフケアや学習指導、首都圏でのチャリティー講演等を行っている。宮城県出身。

大河ドラマやNHK朝の連続テレビ小説をご覧になったことはありますか?江戸から明治へと日本の歴史が大きく動いた時代は、繰り返し取り上げられる人気の時代設定です。しかし、既に通り過ぎてきた科学や技術の歴史を研究するとは、どういうことなのでしょうか?私たちの未来へ向けてどんな意味があるのかなど、科学史家の佐藤さんに伺いました。

目次

  1. 伊能忠敬『以前』の地図を知っていますか?
  2. 300年前のインターネット掲示板!?
  3. 大規模工場方式は明治時代に輸入された
  4. 2種類の『新発見』
  5. 東日本大震災復興支援の2つのテーマ
  6. 史料レスキューで救われるもの
  7. 取材を終えて

伊能忠敬『以前』の地図を知っていますか?

はじめに、最近手がけている研究分野の話題から紹介しましょうか。江戸時代の地図と測量術の歴史を近年は集中的に追いかけています。 江戸時代の地図というと、真っ先にイメージされるのは伊能忠敬とその日本地図ではないでしょうか。今から約200年前の1818年に伊能は亡くなっていますが、江戸時代が始まってからどれほど経過しているかと見直すと既に200年ほど経った頃になります。

伊能忠敬以前の国絵図 (伊達藩領を描いた17世紀の「国絵図」。宮城県図書館所蔵レプリカ/佐藤撮影)

では、伊能以前の200年間、江戸時代の日本に日本地図は無かったのでしょうか?もちろん、そんなことはありません。伊能忠敬の頃から数えて約100年以前にも日本全国地図は作られています。日本列島の形や大きさが不正確だったり、位置関係が違っていたりということはありましたが、当時の技術で測量を重ね、地図に書き起こすという作業は綿々と受け継がれてきました。それらの積み重ねがあったからこそ、伊能忠敬(とそのチーム)の業績が成就したという側面は確実にあります。

伊能忠敬の100年くらい前の測量術がどのような由来を持つ技術だったのか?実はこれまで詳しく顧みられることはありませんでした。地図そのものは残っていてどんな道具類を使っていたのかは大体分かるのですが、それらの技術が実際にどこからやってきたのか?その発端を明確に示す情報がほとんど残っていないのです。この10年くらいの間、江戸時代における測量術の起源を追いかける仕事をしていまして、いくつか面白い史料も見つかってきました。

  • 斜面の測量
    『山中見分図』(電気通信大学所蔵)
  • 谷底の樹までの距離を測る
    『新製町見術』(電気通信大学所蔵)

一言で表すと、相当多数の道具類や測量の技法が17世紀の内にオランダから入ってきていたことが分かりました。例えば、北海道函館市には五角形の五稜郭がありますが、これはヨーロッパの星形要塞と言われているもので、その築城法や攻城法を描いた書籍が、1650年に日本で参照されています。測量術は築城や攻城の関連技術として、直接オランダから教えられていたことが分かりました。これなども日本の測量術の起源の1つです。

A. フライターク『軍事建築あるいは新しい要塞』( L’architecture militaire ou La fortification nouuelle, 1635、個人蔵)より
1650年に江戸で行われた砲術実演の際に、オランダ側が持ち込んだ書物。星形要塞に関する技術書。この実演の傍ら、測量術が日本人に伝授されていた。右の図にはアルキメデス揚水機が描かれているが、同型の揚水機が佐渡金山でも用いられていたことが知られている。
(関連情報のサイト:早稲田大学古典籍総合データベース 「攻城阿蘭陀由里安牟相伝 」 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0289/bunko08_c0289.html) 他にも、水平に置いた板を使う平板測量、星の角度を測るクロス・スタッフといった道具類等々がヨーロッパから伝来しています。こういった17世紀の伝来技術が日本の測量術の基礎となっていたことが分かってきました。
  • J.セラー,『実用航海術』
    (Practical Navigation, 1730)より。
    クロス・スタッフにより天体の高度を測る
  • 『町間秘事術』(電気通信大学所蔵)より
    クロス・スタッフを用いた測量が日本に定着している。
  • D. シュベンター『実用幾何学』
    (Geometriae practicae,1627)より
    平板測量の挿図
  • 『規矩元法』(電気通信大学所蔵)より
    左の図と全く同じ構図の平板測量の説明図

300年前のインターネット掲示板!?

江戸時代も後半になりますと、数学的思考を個人で楽しむだけではなく、面白い問題を作成し、それを解いたら神社やお寺などへ『算額』として奉納する人たちが多数現れました。当時の寺社仏閣といえば、地域の観光名所です。不特定多数の人が入れ替わり立ち代わりする場所で、自慢の問題を掲示したり、面白そうな問題を解いてみたり。時には、選りすぐりの問題が本として出版されることもあり、現代のインターネット掲示板のような役割も算額は持っていました。

長野県木島平村水穂神社に奉納された算額 (1800年/佐藤撮影)

算額は、その地域の人が自分たちの成果を神仏に報告するという建前でしたが、そこを訪れた人たちにその地域の和算に関する情報を知らせるものでもありました。北は青森から南は九州まで、当時の日本人には数学を楽しむ人たちが大勢いて、日々研鑽を積んでいました。

  • 『暦算全書弧三角法要解』(電気通信大学所蔵)
    球面三角法を和算の数式表記で解説した書
  • 石黒信由『算学鉤致』(1819/電気通信大学所蔵)
    越中射水郡の15歳の筏井満直が自問自答した問題を収録する。
    算額を集めた問題集。
  • 『天生法初術』(電機通信大学所蔵)より
    女性も和算塾で学んでいた。田中喜佐女織の自問自答。
  • 「関流算法相場割」(電気通信大学所蔵)より
    堤の面積を求める実用的な問題の解説

このような下地もあり、江戸時代前半には一部の専門家が担っていた測量も、和算を学んだ庄屋さんなどが指揮を執り、住民だけで測量をするような地域も現れました。和算の普及と共に日本中で測量や地図作りを実践する人が増えました。これがあっての、伊能忠敬の日本全国地図でした。

大規模工場方式は明治時代に輸入された

さて、江戸時代の日本では、円周率を50桁も計算するような数値の精密さへのこだわりがありました。当時としては世界的に見ても引けを取らない成果でしたが、実際のものづくりにも精密さを共有することが必要だという発想に繋がることはありませんでした。手工業では、今の我々から見ても驚異的な細工物を作り上げた日本の職人集団が各方面に存在していました。しかし、彼らの知識や技能は、神業とか職人芸と呼ばれることが多いわけですが、徒弟制度の中で「見て盗む」のが一般的でした。

一方、ヨーロッパでは18世紀後半に産業革命が起こり、家内制手工業から工場制機械工業へとシフトしていきます。産業革命というと、とにかく巨大な蒸気機関車や蒸気船の出現を思い浮かべがちですが、これらがきちんと動いてくれるには、細かい部品までが必要な精度で作られていることが必須となります。産業革命は一面では精密革命をも伴っていたわけです。

日本を含むアジア圏では、技術の継承は個人間で行われることが普通でした。これに対して、ヨーロッパでは工場を完備して、ある程度のトレーニングを積めば誰もが職工として働け、製品を大量生産できるシステムを作り上げました。これはヨーロッパの発明といえるでしょう。(もちろん、トレーニングが必要とされない故に、若年労働者を酷使する社会問題も発生したわけですが。)

日本の工業の歴史というと、江戸時代の木と紙をベースとした社会のイメージから、いきなり20世紀に半導体で世界シェアのトップを取るに至ったというイメージに飛んでしまう人もいると聞きます。(これはさすがに極端すぎますが。)単純なサクセス・ストーリーとしての歴史には落とし込めない紆余曲折、苦闘の連続があったことは折に触れて思い出して欲しいところです。

日本では明治時代のおよそ40年間に、工業技術や経営、学校制度など、当時のあらゆる「欧米の進んだもの」を国策として取り込みました。国を挙げての大転換ですが、日本の工業化の象徴的な存在である幕末の韮山反射炉や明治期に稼働し始めた八幡製鉄所にも、膨大なトライアル&エラーを経験した歴史があったことは強調しておきたいところです。

韮山反射炉(1857年築造/佐藤撮影)

工場システムを発明することはできませんでしたが、それら技術のキャッチアップがまだ可能だった歴史的タイミングで近代化に乗り出せたことも、その後の日本の発展に繋がった要因の1つだったと言えるでしょう。

2種類の『新発見』

自分の研究の話題に立ち戻りましょう。歴史研究には2つのタイプの発見があるようだな、と実感しています。

一つは、全く未知の新しい歴史史料が見つかる場合です。過去の事例で申しますと、それまで数学を使った遊びの記録を遡れるのは精々江戸時代までだと考えられていました。ところが10年ほど前、偶然古本屋で碁石を使った算術パズルの本を見つけました。放射性炭素年代法で計測した結果、書かれた紙が西暦1400年代のものと判明しました。室町時代の本です。その頃には既に、碁石を用いて数学的な知識を用いた遊びが記録されていたのです。古い本ですが、新発見でした。

『棊盤上』(室町時代/個人蔵) 碁石を用いた数学遊戯が記されている。

もう一つの発見のパターンは、解釈に関わる事柄です。素材となる「もの」は既にあるのですが、そこに記されていたり、描かれている情報が全く解読できない場合が往々にしてあります。そのために歴史家はいろいろと状況証拠を突き合わせて、忘れられてしまった情報、隠されている意味を解読しようとします。和算の本にもそのような事例は沢山ありまして、計算結果だけ書かれていて、その背景にあったはずのプロセス、アルゴリズムが隠されているのは日常茶飯事です。つい先日、ある1つのアルゴリズムが17世紀の和算書にも用いられていたらしいことを見つけました。これについては現在論文を準備中ですので、詳細は乞うご期待ということになりますが。

これら2つのパターンの発見は、いずれも、史料と丹念に向き合うと同時に、更なる史料を探してあちこち探訪することがきっかけとなっています。計算問題を相手にするときのデスク・ワークと、ヒントをフィールド・ワークで見つけることのバランスが大事だということは、行きつ戻りつしながら進めてきた研究活動で得られたささやかな教訓ですね。

私の科学史関連の講義ではそういった幾つかの発見も取り混ぜて紹介しています。受講してくれている学生たち、特に大学院生諸君は、それぞれの研究テーマに引き付けて、この講義を聞いてくれているようです。彼らにとって、科学史が直接的に研究成果に繋がる訳ではありませんが、自分の研究の礎になった知識や技術の背景、現在に至るまでの流れを知ることが個別の知識に深みと再考の機会を与えてくれているようです。

東日本大震災復興支援の2つのテーマ

最後に、これもフィールドワークや人間の歴史に関する話題として、2011年の東日本大震災にまつわることをお話ししましょう。自分自身が宮城県出身ということもあって、震災直後からいろいろな形で被災地と関りを持ってきました。社会貢献と言うにはおこがましいほどのささやかな活動ですが。

大きく二つの柱がありまして、一つは一般的な支援活動として、子供たちの教育・学習支援、安心できる居場所を作る活動を進めてきました。長期に渡って継続していくため、支援仲間と共に一般社団法人を設立しました。コロナ禍以前は毎週のように現地に通ってこれらの支援活動を行っていましたが、2021年現在は難しい状況ですね。

二つ目は自分の専門分野に近い話になりますが、被災史料のレスキューです。歴史的な文化財や、史料などが洪水や津波といった災害に遭った際に、これらが損壊してしまう前に救出して修復を行うという活動が文化財レスキューです。現地へ行ってレスキューする作業を自分も数回、行っています。

南三陸町内でお預かりした史料の被災状況 (2011年9月/佐藤撮影)

10年前の東日本大震災の折に、宮城県の南三陸町の一般のお宅から、津波で潮水に浸かった古い文書資料があるというお知らせを頂き、とりあえずお預かりしました。まずは、脱塩処理と洗浄をして、破損箇所の修理をしたりといった作業を専門業者さんにお願いしました。修復された史料を読んで驚きました。

史料レスキューで救われるもの

その史料の中には、小説・映画にもなった八甲田山雪中行軍(1902年)で遭難された、若い兵士の記録・肉筆が含まれていました。今現在も、その調査を進めているところです。この史料の持ち主の方自身、ご先祖にそういう方がいるとは聞いてはいたものの、まさか仏間から歴史的史料が出てくるとは思いもよらなかったそうです。そもそも、八甲田山の雪中行軍で亡くなった方の多くは、将官クラス以外は、岩手や宮城出身の20代そこそこの青年たちでした。彼らについては殆ど個人的な記録が残っておらず、一体何を考え、どのような人柄だったのかなど、全く知られていません。しかし、ここでレスキューした史料に登場する青年は、文章も書き残して漢文の教科書なども読んでおり、その人柄の片鱗が見えてきました。他にも、明治期から昭和初期の南三陸町の歴史を知る重要な情報がレスキューした史料から分かってきました。ものとしての史料だけではなく、その時そこで生きていた人々の暮らしや、地域の記憶の消滅を、レスキューによって食い止めることができたのではないかと思っています。

救出史料の1つ
遭難した上等兵・三浦十吉の葬儀の香典帳

これはほんの一例ですが、1990年代の阪神淡路大震災以降、災害が起きると全国の歴史・美術館・博物館関係者があちこち飛び回って、史料を集めてレスキューするという活動を実践しています。もし機会がありましたら、ぜひそういう方面にも注目して頂きたいです。

また、災害に限らず、古い蔵の取り壊しなどで古文書などが出てくることがあります。このような時も、捨ててしまう前に是非、お近くの博物館などへご連絡いただければと思います。ボロボロの紙でも、判読できない古い文字でも、新しい知見の宝庫であることは間違いありません。

取材を終えて

和算問題の作者が15歳の少年や女性がという記述、多くの人達が和算を楽しんでいた様子が伺えます。また、南三陸町でレスキューされた史料のお蔭で、一人ひとりに人生があったことを思い出しました。いずれも、紙で残っていたからこそ分かったように感じます。記録から浮かび上がる当時の暮らしのイメージは、これまで考えていたよりもずっとふくよかなものだったのかもしれません。「史料を読む」とはどういうことか、垣間見た気がします。

サイエンスライター富山佳奈利

幼少期よりジャンル不問の大量読書で蓄えた『知識の補助線』を武器に、サイエンスの意外な側面を軽やかに伝えている。趣味は博物館巡りと鳥類に噛まれること。北海道出身。鎌倉FMの理系雑学番組『理系の森』出演中(毎週土曜16:30〜 82.8MHz)